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1月, 2012の投稿を表示しています

日本を離れてアメリカで暮らす前に

もし、仮に2012年の今、私が日本に住んでいて、ボーイフレンドがアメリカに渡って一旗あげようと言い出した, もしくは、アメリカ人のボーイフレンドがいて、「そろそろ結婚しようね(=日本を離れて、暮らす)」という状況の時には先ず、このように計画を立てるだろうと思います。 帰国子女で既に戦略プランを持っている場合や、海外転勤で会社が生活一般から、金銭的にもバックアップしてくれる場合は別です。また、セレブ的なマーケッタビリティーを持っている例外的な人、Hilton的な「うちがいいから、お金のこと心配しなくていいの」と言う人も傾向と対策は異なって、これらは私のような、フツーの市民の場合です。そういう人が海外の地で暮らすのは汗だくだくの連続です。でも、良いことに、新天地のアメリカでは、よほどの人でない限り、 誰でも一時は移民 だったわけで、金銭的余裕があれば、生きるのが非常に楽だ、と言い切ることができます。 自分の持つスキルの見直しをする 大学の成績証明書と卒業証明書を取る(英語) 急いでTOFELを受けてみる 各種学校、茶道、華道、書道など、「道」のつく免状を持っていれば、英語の証明書を作ってもらう。できないと言われたら、英訳して、サインをしてもらう 中学、高校で数学や物理の先生をした経験があるなら、それを英語でしかるべき公的機関によって証明してもらう(実際、アメリカで先生として教えるには、州で決められたコースを取って、試験にパスする必要があるとは思う) 行く先に支社や、取引先の会社があり、ネットワークがある場合には働けるかどうか、探りを入れておく  2 .急いで、学校に行き、できれば免許を取る 和食調理師 日本酒のソムリエ 指圧師(東洋もの) ヘアカットやメーキャップ(日本の繊細さを売り物にしたカットやメークの仕方を習う) 着付け コンピュータープログラミングやグラフィックデザイン 日本の物(工業製品、食べ物、文化一般)は水準が高い、また、神秘的でアメリカ人には真似のできない何かがある、と思われていますから、それをアセットにできるような技能を取得します。  3 .財政状況をチェックする。 長期投資を図る。日本に口座をおいて置く(税金の問題をクリアする必要が後に出てくる可能性あり) 出発まで、無駄な出

アメリカに来てから「週4時間働く」反対の生活をしてきた

Timothy Ferrissによって書かれたThe 4-Hour Workweekを読んだ。仕事に人生を飲み込まれないで、自分の人生を構築するために、仕事の方をコントロールしてしまいしょう、という啓発本だ。2007年に出版されて、ニューヨークタイムズのベストセラーになったというから、既に語りつくされているのかもしれないが、「ふーん、私は全く反対のことをして、同じ結果を得た」と思える箇所があった。 彼の提唱は殆どが経済価値を拡大することと、自己達成への方法を教授するもので、「確かにそうだよね」から、「それで、構築された人生の最後に何を求めているわけ?」と聞きたいことも多かった。でも、話題があちこちに飛ぶので、読みながら前に何を読んだか、どんどん忘れていった。読みながら、なぜか日本の勝間某をを思い出していた。 好きなことだけに集中して、つまんないことのアウトソース化と自動化を提唱していた。そうした面倒くさい、つまんないことの中には妻のご機嫌取りや、子供へのプレゼントを探すこともあった。「彼女にちょっと言いたいんだけど、言えばトラブルになるのが分かっている。それをI love youも含めて、直に奥さんに言うより、インド人のアウトソース先の女の人の方に頼んだ方がずっと上手く行く。彼女は奥さんに一言伝えながら、同時に喜ばすメールを書ける、もう、この際どんどん外注しちゃう」というのだった。 そういうやり方で得た時間を使って成し遂げたことの中に、日光の流鏑馬があった。本当かな?伝統的な流鏑馬を誰にでも開放しているのでしょうか。この人、中国のキックボクシングのチャンピオンになったとも言っている。しかし、それは、格闘技の心技を極めてナショナル・チャンピオンになったのではなくて、ルールブックを隅から隅まで読んで、「なーんだ、相手をリングから突き落としちゃえばいいじゃん。ルール違反じゃないんだから」とテクニカルノックアウトで勝ち取ったチャンピオンの座だ。流鏑馬については何の説明もしていない。 書いているうちに嫌になってきた。 初めに言った私の 「全く反対のこと」 とは、彼とは逆に、 アウトソースをできるだけしないで、五万とあるサービスを買わず、feel goodのために不必要なモノを買わずに、ゆとりある生活をしようと決めたことだ。 私は1986年に、航空会社

1月27日 春のインターンシップ・オリエンテーション

午後2時前から、インターンがオフィス(ダイニングルーム)に集まり始めた。車を持っていないウォレンはどうするのかと心配していたが、メンバーの一人に乗せて来てもらったらしい。夫デイヴがEメールで、彼の事情を説明したので、誰かがピックアップしてあげたのだろう、いい出だしだ。ブレーク一人がちょっと遅れた、やはり彼も車の問題があった。インタビューの時にはガールフレンドの車を借りて来たと言っていたけれども。全員が揃ったところで、自己紹介をした。専攻と、このインターンシップで何をやることになっているのか。抱負も語られて、多くが、会社を一から始めるところに参加できてわくわくしていると言った。最後に社長のデイヴが挨拶をちょっとして、早速、ペーパーワークに取り掛かった。写真の数々はデイヴのブログ、 Stepping off the Cliff で。 まず、IDから。労働許可を確認するわけだ。 運転免許書だけで済ませたのは、ジェイソン、バン、ブレーク。三人の男の子たちはSocial Security カードを持参する頭がなかったのか。 イルセはよれよれの運転免許書大の出生証明書を持ってきた。彼女はテキサス南部の出身だが、そのような小さい出生証明書を初めて見た。また、Social Securityカードも持参したので完璧だった。 三人の中国人大学院生は様々だった。 インリーはガブリエルという英語名に名前を代えていた。彼女の中国パスポートにはヴィザが貼られていて、それが、大学院を終えてからも、1年半から2年間はトレーニング期間として滞在してよいことを証明するのだった。彼女は既に去年の12月に大学院を終えている。 ディーは中国パスポート、それに大学からの許可証。 ウォレンは大学から許可証をもらえなくて、結局、ボランティアとして働くことになった。アメリカの大学院に一年滞在すれば、働くことを許可されることになっているらしいのだが、前の一年がイリノイの大学院だったために、テキサス大学としては今年を一年目の年として扱うらしいのだ。 私はひたすら書類をスキャンした。 IDは始まりで、彼らはその後、7種類の書類を書き込まなければならなかった。 Form W-4 税金用 Authorization for Direct Deposit Employee Form  Empl

猫の手も借りたいほどだが、猫のポーズで小休止

我が家のダイニングルームに学生7人が集まり、一回目のミーティングが予定されている。27日、金曜日の午後だ。当然、彼らはキッチンや外のデッキでコーヒーを飲んだり、ノートブックを手に好きな場所で仕事をするだろうから、第三者の目で台所を見回した。驚くほど汚い。 これはいかん、とメープルのテーブルと椅子を磨いている。拭くだけでは20年もの盛り上がった汚れ(途中で何度か拭いたと思うが、、、)を取り除くことはできない。紙やすりを使って、黒く、傷になった部分を除き、Tung Oilを塗りこむと見違えるようになった。 しなければならない事が山ほどある。が、猫のポーズで小休止。

インターンシップ3日目、3人の申込者をインタビューする

今日は3人のインターンシップ申込者のインタビューをした。女子学生二人に、男性学生一人。男子学生は、申し合わせたように黒いスーツに黒いネクタイ。 女子学生は、一人が黒いブラウスに、さりげないネックレス、それに今時珍しいハイウエストのスラックスで現れた。もう一人はグレーのタイトなジーンズとチャコールグレーのジャケット、それにハイヒールを履いていた。ハイウエストの人もやっぱりスラックスと同じベージュ色のハイヒールを履いていた。 男子学生より、バリエーションがあって目のためには楽しかった、ここだけの話。 黒いブラウスの女子学生はおっとりしていて、人好きのする性格だと感じたのだが、彼女自身も人を相手の仕事が合っているのだろう、将来的にはホテルマネージメントやホスピタリティーに進みたいと言った。 彼女にはイベント調査と、イベント関連のマーケティングをやってもらうことにして、彼女も喜んで、それを受けた。 ジーンズの女性(大学院生)は、教育心理で博士号を取るためにスタートしたけれども、修士に転向して、もっと他のことをやりたいと話した。彼女はマカオから来ていて、どうしても頑張ってアメリカのグリーンカードが欲しいんだと、「ここだけの話」という感じで話した。彼女によれば、同じ中国の中(マカオは香港のように中国の一部?)で、同じ仕事をしても、グリーンカードを持っているか、いないかで給料が何倍も違うのだと説明した。 「心理学の修士くらいでは、アメリカの学校、NPOなどでは誰もグリーンカードのスポンサーになってくれない。まず、経験と博士号が要求される。けれども、その経験をするのが難しい」と言いながら、2オクターブくらい声が上がった。 「初めに言っておきますが、私たちは退職金を取り崩しながらビジネスを始めたので、とてもグリーンカードのスポンサーなんかになれません。それに、働く時間も限られています。しかし、お給料は払いますから、次のステップに、マイナスになることはないと思います。しかし、許されたトレーニング期間(外国人学生は1年半から2年、卒業後にトレーニング期間としてアメリカ滞在が許される)を無駄にする結果にならないよう、よく考えて」と夫が話すと、 「仕事を見つけるのは本当に難しい。アパートで一人、犬と遊んで滅入った気分になるより、少しの

インターンシップ申込者のインタビュー2日目

日曜日のお昼前、一人だけインターンシップのインタビューに来た。 夫は何回でも同じビジネスプラン、モデルを説明できる。そして今日も、インタビューに来た学生に熱心に、丁寧に同じ説明をしている。誰に対しても、一字一句とまでは行かないが、殆ど同じ話をしている。もし、この人にも来てもらうとしたら、前の人たち、これから後の人たち、皆同じ情報を伝えておかなければまずいと考えているのだろうか。或いは、役者が同じ劇を違う観客に何度でも情熱的に演じて見せるように、覚えきった説明は何も考えなくても自動的に口から出てくるのだろうか。 私は傍で二人の会話や表情を見聞きしていて、今話しているこの事は、この人には伝わっていない、ということが分かる。頭の良し悪しとは別の話だ。特に、今日の学生はAmerica Mensaのメンバーだというから、IQは抜きん出て高いはずだ。単純に、アメリカ人にとっては普通のことを、外国人だから体験していない、それだけのことだ。が、そのような時でも夫は説明を止めない。私たちのように小さな会社で、その体験不足を、その都度一から夫が説明しながら、使える余裕があるのだろうか、ことにソーシャルな側面が強調されるような場合に。夫は「何かやってもらう事があるだろう」と言う。申し込みしてきた人には皆来てもらいたいようだ。 車を持っていないというから、一週間に一遍、我が家(オフィス)にミーティングのために集まる時にはどうするのだろう。

アメリカの就活ファッション

昨日、3人のテキサス大学の学生がインターンシップのインタビューに訪れた。中国系の男の子は黒いスーツ、白いシャツに紺とグレーだったかのネクタイ、ベトナム系の男の子は黒いスーツ、白いシャツ、真っ黒のネクタイをしてきた。 これがアメリカのジョブ・インタビューのドレスコードなのかしらと興味深かった。会社の方針はこうこうで、インターンにはこのような仕事をしてもらいます、とは言ってあっても、どのような服装でインタビューに来なさい、とは言っていない。 日本の就活用の服も長い間、黒が主流だと聞いたけれど、今もそれは変わらないのだろうか。黒いスーツを着て、黒い靴に、A4の紙が入る黒いカバンを提げて会社を訪れたり、面接に行くのだろうか。 日本の会社の人事担当者は終日そういう人たちを相手にして、「もう少しカラフルにして、目を楽しませてくれないかなあ」と心の中で思ったりしないのかな。 もう一人の白人の男の子は白地に細いレンガ色のストライプのシャツ(ブルックスブラザース。直ぐに気づいた)とオレンジ系のネクタイ、それにカーキで現れた。インタビューの合間に、ちょっとそんな話もした。 「僕もちょっと迷ったんですけど(スーツにしようかどうか)」 「僕は、カーキとスポーツコート(ブレザーコート)を薦めるな、ハイテク系の仕事だったら。スーツはちょっと堅すぎるような気がする」と夫が言った。 dress code job interviewとGoogleしてみると、アメリカでもやっぱり同じように、黒のスーツが多かった。個性や能力を含めて 中身を認めてもらう ために、インタビューをする人の気を逸らせてしまうような服装は避けるのだという理論だろうけれども。 「インターンとして仕事をしてもらう時にはもっとカジュアルでいいですからね」と言うと、皆、ニコッとした。あと二日、残りの人がどんな服装で現れるか楽しみでもある。技術的、能力的な側面は夫がチェックしているので、そばで私は彼らの表情を観察している。時々、一方的に話し続ける夫をスローダウンさせて、彼らが話せるように、一般的な質問をしてみたりする。

インターンシップ申込者のインタビューを開始する

二回目の起業は1994年、dot.comバブルがこれからという時期だった。6人か8人だったか、メンバー全員がIBMの元社員で、夫は副社長というタイトルをもらった。全員が投資者であり、社員だった。問題は、メンバーが違う方向を向いていて、会社に対する期待と思惑が異なっていたことだ。 社長はアイデアベースの会社を短期間で膨らませて、なるべく早くそれを同業他社に売って儲けることに的を絞っていた。これとは反対に、夫はじっくりと会社を大きくして行きたいと願っていた。そのため、方針が異なって仲違いして、ハッピーな結末にはならなかった。友達や兄弟と会社を始めるというのは気をつけた方がいいですね、お金以外の大切なモノを失う結果になりかねない。 子育ての責任からほぼ解放されたのだから、今回は「情熱をかたむけられるもの」をビジネスの中心に据え付けようと決めた。また、できれば、若者に実際に仕事をするチャンスを与えたいと思っている。 私たち(私の方がずっと年上)が仕事をし始めた時期は、高度成長期であったため、あまり苦労することなく職が見つかった。同僚は支えあって、一緒に伸びていく仲間となり、生涯の友となった。即戦力がなくても、ポテンシャルがあれば、その会社が社員教育しますという大らかなところがあり、「この技術、あの経験、アチーブメント、等々」うるさい事は言われなかった。 この頃の若者は。。。しっかりしている。少なくとも、今日、インターンシップのインタビューに現れた三人のテキサス大学の男の子たちは20歳から、23歳くらいだったが、とてもしっかりしていた。インタビュー直後にOKをした。どのような展開になるのか、楽しみである。

一度目はS-Corporationで登録

1992年に初めて会社を設立した時、弁護士を頼んでS-CorporationとしてTravis County Officeに登録した。忘れていたが、その時の請求書を見ると、ぴったり500ドルとなっている。費用の内訳は次のようなものだった。 1992年5月22日 会社設立の相談 1992年5月26日 テキサス州当局に、これから登録しようとする企業名が既に存在するかどうかを確認 1992年5月27日 County Officeで企業名が既に存在するか確認 1992年6月17日 内規の草案策定、議事録を依頼人に送付 1992年7月10日 役員会開催(夫、私、弁護士) 1992年7月15日 内規、議事録、会社発行の株の証書を譲渡する(株主は夫と私だけ) 2ヶ月にも満たない間に、会社は設立された。全く簡単な手続きで、同じ7月15日には州のSales and Tax Permitも取得している。ビジネスの内容はテキサス各地のハンドクラフトをカタログ化して日本で販売するものだった。確か、4000ドルの資本金でスタートしたと記憶する。 問題は、カタログ制作に予想以上に経費がかかった事だ。今のように、ウェブページで簡単にオンラインビジネスが展開できる環境になく、また、デジタルカメラも市場に出回ってはいなかった。個々の製品の写真を撮り、鋏とのりを使ってカット&ペーストしてカタログを作った。 幾つかのクラフトをある販売ルートに乗せることができたものの、早いうちに、木製のおもちゃのような、かさばるモノを動かすのは利益率が悪いと悟った。全く当たり前の事だが、ビジネスをスタートさせる前には気づかなかった。パッションだけが先に走った。 その後、英語のパンフレットの日本語訳、英語の名刺の日本語訳など、重さのない、情報ビジネスに転換した。細々ながら、私一人が会社を10年続けた。会社を閉鎖するのは簡単で、County Officeに出向いて、ペーパー一枚にサインするだけで、あっけなく終わった。 会社の形態としては、LLC,C-Corp,S-Corpなど、様々だが、何故、LLCやC-Corpでなく、S-Corpにしたのか。 実のところ、当時は、はっきり分からずに弁護士に薦められて、それに従ったのだと思う。会社の形を取らずにビジネスを展開して、法的な問題が起き

夫が三度目の起業をする

アメリカ人の夫は1992年と1995年 , 過去二回にわたって自分の会社を立ち上げた。それらの会社は、いずれも大損を出さない代わりにビリオネアにもしてくれないまま終わり、その度に古巣のソフトウェアの開発に戻った。 今回は、 2011年4月に IBM を退社した後、三つ目の会社、 Asatte Press, Inc. を立ち上げて、6月にテキサス州に登録した。そして妻の私は副社長になった。社長は会社を始めて数ヶ月を医療保険の契約、税金、会計など、売るための製品開発とは関係のないところで時間を費やさなくてはならなかった。その間に副社長は会社のロゴと名刺を作った。 1992年に小さな会社を作った時には弁護士を探して、必要な手続きを代行してもらった。今回は全てのプロセスを自分たちでやってみようと決めたので、面倒ではあったけれども誰も頼まなかった。その代わりに、 Amazon から大量の本を買った。 夫が会社を辞めて自宅の二階のオフィスで仕事を始めて9ヶ月が過ぎた。 IBM で働いていた時も、出張を除いてほとんど自宅で働いていたので、その点については違和感はまったくない。仕事のパートナーやビジネス先が世界中に散らばっていたため、コンファレンスコールと電子メールで連絡を取り、プレゼンテーション用のドキュメントを作って、出張に出る、というパターンが殆どで会社に出向く必要がなかったからだ。見ていると誰にも監視されない独立した ( 孤独な)働き方に見えた。 今はと言えば、新しい事業の出版やウェブデザインのソフトに関する本を終日読み、ビジネスプランを具体化できるように方法を考え、ドキュメント化する実に孤独な(誰にも監視されない独立した)働き方をしている。話し相手は私だけ、という日もあるだろうと思う。 ビジネスのスキルや判断力を持たない私は直感的な意見と主婦的感覚の消費者の意見は言えてもそれ以上の大局的なことは見えないし、言える立場にない。夫が一人で社長として舵取りをする場合、補佐の副社長の妻はどうしたものか。船頭に行く先をお任せするだけか。 いい聞き手であるだけでは不十分な気もする。