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3月, 2012の投稿を表示しています

絶対成功できる、と100%前もって言えるプロジェクトなんてあるのだろうか

「真夜中に目が覚めて、いろいろ考え始めたら寝られなくなった。一体、自分がやろうとしていることが上手く行くだろうか、軌道に乗る前に潰れちゃうんじゃないかって、考えたら眠れなくなった」とデイヴが言った。 「私は、半年前くらいには何度もあったわ。今は大丈夫。やるしかないから、迷わずどんどん行く」 デイヴが去年の春に会社を辞めて、何かを始めようとした時に、あれはどうか、これはどうか、とくるくるとアイデアが変わった。半年経っても、はっきりとした方向が見えなかった。毎日二人で話していると、煮詰まって、出口無しという気分になってくる。初めは、その期間を彼のサバティカルと捉えて、一緒に旅行をし、また、何度も見本市や大きな会議に出かけたりもした。が、本来のサバティカルは戻る仕事が保障されている場合の一時的な離職だから、彼の場合は本来のサバティカルではなかった。でも、気分はそうだった。リフレッシュして、再び仕事をしようと決めていた。 暫くすると、二人三脚で一緒にいた小人の私は、はっきりしない、何もしないでいる時間(ビジネスの調査・研究をしている時間)が辛くなってきて、夜中に目が覚めるのだった。 けれども、その時期は過ぎて、今は決めた事を実行に移すには何をしたらいいのかが最重要課題で、ちまちまと心配している時ではない。ビジネスとして成功できるかどうかは問題として、やりたいことがはっきりしたし、フル回転で動いているので、そういう時には私はちっとも怖くはないのだ。 今まで様々なことが起きた。夫が二度目に友達と起業をした時にはクレジットカードをシャッフルして(多分、10枚くらい)、暫くの間、無収入で暮らしていた。その会社が売れなかったら、大きな借金が残っただろうが、何とかなった。また、毎年、鉛筆なめなめ家計簿を見て(本当はExel Spreadsheet)翌年の予算やキャッシュ・フローを検討してきたが、どう考えても三人の子供を大学に送るのに十分な資金がなかった。が、それも何とかなった。不思議なことである。 事は思うように動いて、最終的にはいつもなんとかなる。要はどのくらい、その事を思えるかだ。 野望に満ちた能力のある人たちがアメリカで起業をして成功する。彼らはプランしたプロジェクトを計算しつくして、絶対に「イケル」と分かっているから進めていくのだろうか。おそらく、そうで

Wealth Management(大金持ちの財産管理)をしている人の話

個人のお金持ちの財産管理をしている人と話す機会があった。40歳と、言ったけれども、若く見える。スマートで、エネルギーに満ちていて、ビーンカウンターのイメージとは程遠い。 「人のお金を管理するなんてストレスが溜まる仕事じゃありません?」と、訊くと 「いや、そんなことはないですよ。だって私のお客さんは私よりずっと頭がいい人ばかりですから。でも、彼らには資産の管理をする時間がないわけです。そこで、私がやってあげます。私は『入ってくる以上にお金を使わないように』と言っています。そして、私はもっぱら、それらの資産を分散して投資したりするわけです、、、これはもう、機械的なことで、決して難しいことではありません」 「我が家は今、入って来るものは無くて、もう、その何倍ものお金を使っています、ホホホ」 「ところで、そういう個人は最低どのくらいの資産を持っていて、あなたに任せるのですか?」 「まず、最低で1億ドルです」 「ふ~ん」 オースティンみたいな中規模程度の都市でも、1億ドルを持っている人がうようよいるんだね。時々、管理をしている人が不動産投資に失敗して、お客さんの虎の子をパーにしてしまって、裁判沙汰になったりするけれども。 彼は、「興味深いことに、そういう1億ドル以上の資産を持つ人の大半は離婚を経験していない」と言った。 それはそうだ。興味深いもへちまもなく、離婚をしていないから1億以上のお金が貯められるとも言える。特別裕福な家族に生まれて財産を分けてもらわなくとも、二人のキャリアーが安定していて、30年、40年くらい働き続ければ、そのくらいは貯まるかも。もちろん、彼のいうところの「入ってくる以上に使わない」という方針を貫く必要はあるだろうけれども。 「お客さんはどうやって見つけてくるの?」と訊くと 「口伝え。お客さんが次のお客さんを紹介してくれる」 「なるほどね」 「じゃー、私たちにも1億ドル以上貯まったらお願いするわネ」と言ってみたけれど、 「うん」とは言わなかった。 でも、これから、一緒にいろいろ活動をしそうだ(ビジネスやお金儲けではなくて)。

次から次にソフトウェアを飲み込むPCモンスター

Asatte Press Vice President's PC Monster has an insatiable appetite for new software  1か月ちょっと前に、新しいPCを買ってもらった時には、机一杯に広がるモニターに恥ずかしながら歓声を上げて、 虎屋の羊羹モニターなどと言って喜んでいた 。しかし、それは一緒に旺盛な食欲を持つモンスターを連れてきた。何かと言えば、「新しいソフトをよこせ」と言って舌を出すのだ。 新しいモニターに歓声を上げたのは、画面に映し出されるものが、何でもずっと「明るく」見えるからだった。無知な私は、モニターというのは小さくても、大きくても、縦長でも、横長でも、赤は赤、紫は紫で同じ色に見えるのだと思っていた。 もっとも、赤一色とっても、数限りなくあって、曙のような赤から、血のような赤まで、すべてR(赤)G(緑)B(青)の配合を数値化して色を決めることは知っていた。でも、決めてしまえばどのモニターでも同じように見えるものだと思い込んでいたのは間違いだった。また、モニターに映っているくっきりした赤が、プリントされると沈んだ赤に変わってしまっているのは、プリンターの配合比率がRGBではなく、CMYKだからだ、くらいは覚えていた。実際、Photoshopで作ったイメージを試しに、PDF出版してみると、思った色にならないという経験をした。 「安いAdobe ElementからCS5に変えたんだから、変換機能があるでしょ」とデイヴに言うと、 「そこなんだよ。その変換機能が欲しかったら、もう一つ上のCS5.1(64Bit)を買わなくちゃいけないんだ」と言った。 「う~ん、もう。大抵のことはCS5、いや、古い安いElementだって間に合うのに(古すぎて売っていないかもしれない)」 結局、その変換機能のために大枚500ドルを払って、CS5.1(64Bit)を買った。 よくよく考えてみると、RGBからCMYK変換をしてプリントをする前に、一体、モニターがちゃんと欲しい色を映し出しているのか、それを知る必要があった。モニターが正確、かつ安定して色を再現できるか、それを調整(Calibration)できるというソフトがあって、そのうちの一つも買った。i1Profilerと

Datsun(ダッツン)の復活と片山豊さん

「Datsun ブランドが復活する」と、21日付けの新聞を読みながら夫が言った。 私にとっては「ダット サン」、でも、アメリカ人は「 ダッ ツン」と一息で発音した。今の若い人は何それ? だろうけれども。今のNissan, ,ニッサン、日産は一昔前はダットサンだった。 新ブランドの車はインドネシアやロシアのようなEmerging Market用(つまり、低価格の車)で、アメリカ人のドライバーがその車の姿を見ることはないだろうと、そのロスアンゼルスタイムズのリポーターは言っている。アメリカ人の間で、何故、Datsun( ダッ ツン)かと言えば、それはもう、オジサン、オジイサンになってしまったBoomerたちの青春時代がそれによって蘇るからだ。70,80年代のアメリカ、殊にカリフォルニアの若者の間でDatsun240zが熱狂的に受け入れらた。夫もそのことを鮮明に覚えていると言う。だって、車体がジャガーやポルシェのようにセクシーで、パワーがあって、しかも若者でも何とかやり繰りできる値段だったからだ。 そのDatsunの熱気の中心に片山豊さんがおられた。 この記事を読むまでは、片山さんが「ものすごい人」だとは存じ上げなかった。が、102歳というお年から、すぐに2010年の文芸春秋スペシャルの中に出ていた、元気な百歳以上の方の生き方を綴ったページの中の「いい友人を持ち、長く付き合う」と語った元日産マンがすぐに浮かんだ。再び、ページをめくってみたら、やっぱりその人だった。 開発部門に長いこと携わってきたので、50歳になっての海外赴任については正直がっかりしたと、文芸春秋のページではさらりりと流しておられる。でも、ロスアンゼルスタイムズのリポーターは、彼が追放にあったのは、会社が背後にいた組合に反対したからだと、書いている。 アメリカ人はUnder dogを応援する。ことにその、負け組が立ち上がって成功する物語が好きだ。日産幹部から勝ち目がないだろうと思われた彼が、与えられた予算1000ドル、技術者一人、秘書一人だけでめげずにアメリカで大成功を収めた話は誰だって感動させただろう。 50歳の再出発というのが泣かせる。わが夫も、大企業ハイテックカンパニーを50歳で辞めて、退職金を元手に新しく会社を始めた。情熱を注げるものが見つかって、パートナーの私は喜んでいる

アメリカのブーメラン世代 = 仲良し家族

アメリカの18~24歳の53%が親のところに戻ったことがあるという アメリカで1980年代前後から2000年前後にかけて生まれた世代はいろいろな名前を付けられている。 我が家の三人の子供たちは、この世代に属している。 Millennials、Boomeran Generation, Generation Yなどという名前で括られている。日本のゆとり世代と年代的に一致するのだろうか。 生まれた時に既にコンピューターがあって、化石世代の私のようなアナログな頭と異なり、スマートフォンを使うのはお茶の子さいさいだ。Pew Researchの調査では、調べた人たちのうち、ケイタイを枕元に置いて寝る人が83%に達したそうだ。意外にも、化石世代(Boomer)の仲間の半数がケイタイを近くに置いて寝るらしい。安眠の敵だと思うのだけれど。私はやらない、そして時々バッテリーが切れている。 何故、この世代の特徴に殊更興味を持ったかというと、Asatte Pressがこの世代に助けてもらわなければならないからだ。もちろん、今いるインターン、これからやって来る人たち、一人一人を丁寧に理解し合うことが大切だろうけれども、彼らが育ってきた環境や、文化的潮流がどのような人格形成に影響したかも、知っておく必要があるだろうと思う。 調査・研究結果を見ると、この世代はBoomerや後続のGeneration Xと違い、 「はい、これがプロジェクト。ほっといてあげるから自分で考えて好きにやんな!」というのは上手くいかないのだそうだ。ほっとかれるのは嫌な世代らしい。 そういう私だって、子供のスポーツから、SATから、大学入学申し込みまで、必死になって、「これをやって、あれをやって」とレジュメを膨らませるのに必死になった覚えがある。競争が激しくて、ほっとく余裕がなかったからだ。 彼らには、何事もStep by Step、トレーニングなども、「これは何のためにやって、これをやれば、こうなる」とレールを敷いて、指示してあげるのが良いらしい。小さい時からサッカーをやってきた世代だ、スポーツコーチから言われ続けてきたように、仕事でも戦略的にグループで動くのがよいのかもしれない。とにかく、静かに、一人にして「はい、どうぞ」と孤立させるのはイケナイのだそ

Austinで開かれるフェスティバル、SXSW(South by Southwest)に見る大小ビジネス

Austin,TXの春=SXSW SXSW Logo 音楽・映画・インタラアクティブのフェスティバルが毎年春休み中にAustinのダウンタウンで開かれる。ずっと前に、「UTの学生がみ~んな春休みでいなくなっちゃって6th Streetあたりのバーやクラブは閑古鳥が鳴いている。何とかしなくちゃあかんべー」くらいで始まった催しが年々大きくなっている。初めは音楽が主体だったが、Twitterが2年前だったかに、このフェスティバルで中央に出て行ったこともあり、インタラアクティブ業界の方々が注目するようになったらしい。 Nokia のパビリオン iPhonの登場ですっかり影が薄くなってしまったNokiaもヒップなイメージを再び打ち出したいのか、大きなパビリオンをもって参加していた。かなりお金をかけただろうと思われる。私が通った時には中で、ロックバンドがリハーサルをしていた。 Nokiaの他に、Nikeも同様に大きなステージを設置してリストバンド・カロリーカウンターのプロモーションをしていた。Asatte Pressのインターンがこのステージで働いていたので、彼女に会いに行った。ちょっと想像がつかないのだが、これもかなりの費用をかけているだろうと思わせた大がかりなものだった。 去年は私のような一般人もコンベンションセンターで開かれるインタラアクティブのショーにパス無しで入れてもらえた。特定の日、特定のセクションだけだったが、それで様子がわかったのだが、今年はそっけなく、「パス無しじゃだめよ」と言われた。新聞を読んでもさして新しいものは見当たらず、また、会場のポスターなどを見ても、So,soという感じだった。 Asatte Pressのプロダクトができあがったら、地元ということもあって是非参加したい、様子を見てみようと意気込んだのだが、もはやゴマ粒みたいな個人企業の出る幕ではなさそうだった。ブース(もしかして机一台)を借りるにしても1万ドルくらいはすぐに消えてしまいそうで、「いやあ、待てよ、考え直してみよう」という結論に達した。 右のふくろうの車の前ではワッペンを配っていたが、90年代後半のテックバブルの再来を思わせた。 車のてっぺんに乗っている人などは、会社の関係者だろうか、Highな場所で、かなりハイになっていた。 しか

酔っ払いウェイトレスを解雇できないレストランオーナー(Austin, TX)

内向的で、理屈と分析で物事を解決しようという夫と、「猫も歩けば小判にあたる」をモットーに生きる私は起業をする時に、レストランやカフェを営むことをビジネスのリストからすぐに外した。私たちには無理だ。 長男の話を聞いて、レストランをやるのは大変だよなあ、と再確認した。 メディアにはセレブシェフが登場して、映画スター並みにちやほやされて、彼らのお店はさながら社交界のように楽しい場所に見える。が、今、South X Southwestで賑わうオースティンでも、ごく、普通のレストランは「貧乏暇なし」的な感がある。 23歳になったばかりの長男はBurnet Rdにある寿司と韓国料理のお店でウェイターをしている。昨日、彼とこういう会話があった。 「もう、びっくりしたんだよ、お店で」 「怒られたとか、誰かがクビになったとか」 「違うよ。ウェイトレスの一人が酒を盗んで飲んでいることがわかったんだよ、働いている時に。同僚が『あの人、飲んでいるよ』って言うから、『確かに動きがスローだけど、疲れているんじゃないか』って俺は応えたけどね、キッチンで開けられていた日本酒のびんから注いで飲んでいるところを押さえられたんだ」 「どの人?(私たちは彼が働くレストランによく行くので、誰が誰だか分かる。サーバーをしているのは長男を除いて皆女の子ばかり) 白人の子、それとも韓国人の子?」 「白人の子だよ」 「ああ、メガネをかけた子だよね。この前(3月9日)行った時、反応が鈍いし、サービスが遅いと思ったけれど、注文したものはみんな出したし、あんなもんだろうと別に気にもしなかったけれど」 「実はあの時、飲んでいたんだよね。今回が初めてじゃないらしいよ」 「即刻、クビ?」 「それが、もう一度チャンスを与えるんだって、マネジャーが言ってた。それから、別の女の子が、チップをごまかしていたことも発覚した」 「どんなふうに? レジからお金を抜いたりするの?」 「クレジットカードで払われた時に、チップの 3 を 8 に書き直したり、支払いを計算した時に、自分のところに多く入れたり、なんか、いろいろやっていたらしいんだよね。俺がランチの時に、幾らにもならないチップを嘆いていたら、彼女は『毎日ラッキーにもいいお客に恵まれる』って言うんだ、不思議だと思ったんだけどね」 「盗んでいたんだね。

インターネットの無い2週間を千葉県木更津で過ごす

年老いた母の面倒を兄夫婦と交代でみてくれる姉を少し休ませたいと思った。それに、何より母の様子も知りたかった。2月から3月にかけて2週間ほど、千葉県木更津の姉の家で過ごした。あの、 証 証 証城寺 証城寺の庭は ツ ツ 月夜だ みんな出て 来い来い来い で有名な 證誠寺 が市内にあり、東京湾を挟んで横浜の真向かいに位置している。駅の前には、狸が飾られている。 狸の彫刻と松の植木 反対側のフューチュアリスティックな横浜の風景と異なり、木更津は昭和という時代で時間が固まってしまい、それから先に動かないように見える。狸が見ている駅前のこのビルにはかってデパートのそごうが入っていたが、撤退して、その後は100円ストアー、カラオケなど、日本のデフレを象徴するようなテナントが名前を連ねている。 私が高校に通った時の木更津にはもう少し賑わいがあった。 シャッターの降りた駅前通り お土産やさんや、小売店(ブティックではない)が並んだ駅前通りは平日の午前中にもかかわらずシャッターが降りたままだ。木更津市民が買い物をしたかったら駅から直通の高速バスで横浜や東京に行くのだと聞いた。 老舗の重厚な塗り壁も剥がれたままで、看板を取り払うエネルギーすら消失してしまったようだ。 レディースサークルと、いささか胡散臭さが漂う古いビルは、かってこのあたりを席巻していたサカモトというデパートの女性顧客のためのサークルだった、と姉から聞いた。よく見ると、右側の窓の上部はアールデコ調だ。 こういう昭和の町に住む姉の家(姉71歳、義理の兄74歳くらい、その義理の兄の弟70歳前後)にはコンピューター、iPad、スマートフォンといったインターネットに接続できる機器が一切なく、外に繋がるツールはテレビ、電話(およびケイタイ)、それに新聞だけだった。が、訪問者が多く、社会的に孤立してはいなかった。 電子機器が皆無の家ではインターネットにかじりついて時間を潰す事はできず、また、コンピューターで仕事ができないとなると、時間はたっぷりあって、過去と現在を5分ごとに行き来している母の突拍子もない話を聞いて相手をする余裕があった。また、韓流メロドラマに夢中になる真面目100%の姉を茶化して笑わ